
写真はそれを撮影した瞬間にすべてが決まるものではない。何気なく撮った一枚が時を経て自分にとって大切なものになることもある。逆に、撮った時にはその意味さえも確信していた写真から、時間の中で異なった意思が立ちあらわれてくることもある。
私たちはなぜ写真を撮るのか。2026年9月28日からはじまる、テラススクエアの次回展「Dialogue with photography #5 The far North」を前に、その出展作家である木村肇、白石ちえこ、加藤孝司がそれぞれの写真、風景、そこに向かわせるものについて語り合った。
どうして私たちは同じ場所へ何度も通うのか。撮り続けた写真は、どのようにして後から作品になっていくのか。3人がそれぞれの経験をもとに語った言葉を辿っていくと、写真とは、撮った瞬間に完結するものではなく、時間の中で意味を変えながら、何度も発見されていくものなのだという感覚が見えてくる。
時間を越えても到達しないもの
What Remains Beyond Our Reach, Beyond Time.
加藤: 白石さんは、木村さんの作品を以前からご存じでしたか?
白石ちえこ: Instagramで見て面白いと思っていました。それと、写真家で写真集コレクターでもあるポーランド人の友達がいて、木村さんの『Snowflakes Dog Man』(2016年)を持っていて、「知ってるか?」みたいな感じで自慢していたんですよ。
加藤: 僕も木村さんの作品を知ったきっかけは海外の人からでした。アメリカの写真家であるマシュー・ジェニテンポから教えてもらいました。ちょうど世界の写真界隈で質感のあるマテリアルに写真をプリントする人たちの動きが気になっていて、マシューに教えてもらった木村さんの『TRACK』(2025年/NECK/アメリカ)も、日本の藁半紙のような紙にリソグラフで印刷されていました。その写真がすごく好きな感じで、「こんなすごい人がいるんだ」と思ったんです。しかも海外の出版社から、百何十部というような手製本が出ている。出版社が手製で作っているようなところから今回の展示作品が含まれる『TRACK』が出ていることにも驚きました。
白石:私も今回のテラススクエアでの展示の顔合わせのときに木村さんに教えていただいてNECKは衝撃でした。「こんなすごい本をコツコツ作っている変な人がいるんだ」と思って(笑)。
木村肇:確かに、かなりニッチなものですね。
加藤:しかも日本人作家の本で、それを海外の名だたる写真家たちが注目していた。特にNECKに関してはそうだったと思います。テラススクエアで展示をしてくれた、マシューやブライアン・シュトゥーマットたちも、みんな木村さんの『TRACK』がすごいと言っていました。

「初めて会ったのは神保町でしたね」。写真:白石ちえこ。
木村:あれはもう出版社のおかげです。僕は何もしていないですね。
加藤:でも、今日、今度テラススクエアで展示される木村さん自身の暗室で手焼きをしたプリントとの違いをみても分かるけれど、ある意味ではNECK版『TRACK』とも言える表現が本として秀逸ですよね。
白石:凝っていますよね。黒い紙になっていて、色のついたインクだったり、写真がページをまたいでいたり。ああいう編集は、全部NECKの人がやったんですか?
木村:編集のベースは僕がやったんです。『TRACK』の撮影自体は2012年から2014年あたりで、そのあと、イギリスで展示をしました。当時、自分でダミーを作っていたものがあって、それを渡しました。2025年に発売されたNECK版でも袋状になっている部分や、ページをまたいでいるところは自分の編集です。でも、黒い紙を入れたり、写真を反転させたりしているのは出版社側です。
白石:では、ふたつが合わさっているんですね。
木村:そうですね。

「今回の木村さんのプリントは 写真集のイメージと違いました」
加藤:海外の出版社とのコミュニケーションは、ある程度細かくやりとりするのですか?
木村:ポイント、ポイントではあります。でも、直接のやり取りはZoomで一度話しただけなんです。その時にすごく馬が合ったんです。それで、「この人だったら任せて大丈夫そうだな」と思って。だから、そこから僕もあまり注文はしませんでした。向こうも一応確認はしてくるんですけど、それも結構よかったので、「じゃあ、それで」という感じでした。本当に何か意見を細かく擦り合わせるということは、そんなになかったですね。向こうも、僕がダミーを渡した段階で、ある程度分かったんだと思います。
白石:NECKの人は、自分の好きな作品の本しか作らないじゃないですか。あれだけのものを作る人だから、やっぱり共通の感覚を持つものには敏感なのだと思います。何より作品へのリスペクトを感じました。だから、そんなにずれないんじゃないかな。しかも、全然商売っ気がないですよね。紙も自ら染色したり、手が込んでいる。発想がちょっと違いますよね。私も木村さんから聞いて初めてNECKを知ったんですけど、世界は本当に広くて面白いなと思いました。こんな人がいるんだ、と。

白石さんの実際の展示作品で額装の打ち合わせ。マットの色などを決めていく。
加藤:そういう出会いは面白いですよね。僕はもちろん日本の写真家にも興味がありますし、ずっと好きな写真家もいます。ただ、もともと海外に目が向いていたところがあって、好きな音楽やアートもそうだし、以前デザインの仕事をしていた時も海外のデザインが好きでした。その中で、日本の写真家が海外の人たちにどういうふうに見られているのかということには、ずっと興味がありました。テラススクエアをやりながらも、海外からの反応が結構あるんです。「自分も展示したい」と言ってくれる人もいるし、そういうところから出会った人もいます。もちろん声がかかったからすべて引き受けるわけではないんですけど、こんな小さなスペースでも、海外の人に見てもらったり、こちらから発信したりすることが起こり得るんだと思っています。だから、テラススクエアで展示する作家についても、日本人だから、アメリカ人だからということではなくて、その時々で自分が気になる人に声をかけています。「すごく好きです」「リスペクトしています」という気持ちとともに声をかける。こういう時代だからこそ、そういうことが起こり得るのかなと思っています。
白石:攻めているなと思いました。今回の木村さんの作品は 日本では展示されていないものですよね。
木村:海外のフォトフェスティバルで展示したことはありますが、日本で『TRACK』を展示するのは実は初めてなんです。

木村肇『TRACK』(2025年/NECK/アメリカ)。
白石:NECK版『TRACK』で初めて木村さんの作品を知った人は、今回テラススクエアで展示される木村さん自身が焼いたプリントをみたら、少し驚くんじゃないかな。今回の木村さんのプリントは 写真集のイメージと違いました。
加藤:そうですね。本当に白石さんと木村さんとこういう機会をいただけて、すごく嬉しいです。
白石:面白いですよね。加藤さんの写真もinstagramに投稿されていた少し傾いた構図の家の写真を見ていて興味を持っていました。こういう三人の組み合わせはあまりないと思います。
加藤:そういう意味では、写真の可能性をもう一度問い直すことでもあると思うんです。白石さんの『鹿渡り』(2020年/蒼穹舎)にしても、木村さんの作品にしても、今回初めて生まれた作品ではありません。ずっと以前から続けてきた作品を、今このタイミングで「この人たちに見てもらいたい」と思った。白石さんも『鹿渡り』をずっと続けてきたし、本が出る前からその作品は存在していた。そういう作り手の思いみたいなものを、どう受け取るのか。テラススクエアには、そういう役割もあると思っています。
白石:そういう目線で活動をキャッチしてくれて、コンタクトしてもらえたことをとても嬉しく思います。時間が経っていても作品そのものを見て、独自の感覚や直感で「今だ」と思って展示を実現できるのは貴重ですね。それは、加藤さんが今この時にそう思ったということと、二人のタイミングと、テラススクエアという場所と、いろんなことが重なっている。商業的な営みではないけれど、すごく豊かな感じがします。ありがとうございます。

今回展示される白石さんと木村さんの作品は全て作家自らが制作したもの。調子の異なる二枚のプリントから最終判断をする白石さん。写真:加藤孝司
見ることと写すこと
Seeing and Making photographs.
加藤:木村さんは、もともとはストリートスナップのような写真も撮っていたんですか?
木村:すごく昔ですよ。写真をやり始めたのは大学生くらいなんですけど、アンリ・カルティエ=ブレッソンのドキュメンタリー映画を見たんです。ブレッソンがどうやって写真を撮っているのかという映画で、撮影する時に相手に悟られないようにするというので、筋トレのような身体の動きを鍛える、というような話があって、それを見て「これだ」と思って。ライカで撮影している姿を見て、当時は運動をやっていたので、これだったらできそうだと思ったんです。学生の頃は、ブレッソンの真似事みたいなことをしていました。
加藤:木村さんには、すごくコンセプトを持って撮っているイメージがあります。何でもかんでも出会い頭で撮っているわけではないというか。そうなっていった理由はあるんですか?
木村:それは、多分ヨーロッパ的な考え方の影響があると思います。大学を卒業した直後、23歳くらいの時に、写真についていろいろ調べていたんです。写真って何なのか、日本以外も含めて、どういう人たちがどういう考え方でやっているのかなと思った時に、ヨーロッパには撮る前に考える人たちがすごく多いんだなと思った。その理由を調べていくと、写真だけではなくて、心理学とか社会学とか、写真以外の私生活や政治などにも結びついているんですよね。そういうことを全然知らなかったので、ヨーロッパの文化を調べたり、政治学や心理学にも興味があったので、そういうものも勉強したりしていました。だから、直感的に何かをやることと、考え方をどういうふうにイメージに転化するのかということの両方をやっていた時期があります。今も撮る時にそういうことを意識することはありますけど、最近は自分の本を自分で作って売るようになってから、むしろその考え方をデザインに利用している気がします。なぜそのデザインになったのかを考える時に、そういう考え方を使っていることの方が多いかもしれません。

「セルフタイマーで集合写真を撮りましょう」。写真:白石ちえこ。
加藤:僕は必ずしもコンセプト重視で撮ってきたわけではないんですけど、ある時、著名な写真家の人に街中で写真を撮っているところを見られていたらしくて、「何撮ってたの?」と言われたことがあるんです。その時、あまり説明できなかった。「綺麗な光があったから」とか、「良さそうだから撮っている」という、ただ直感で撮っているという感じだったから。それが当たり前だと思っていたので、「なんで撮っているの?」と言われた時に、すごく考えたんです。別に嫌だったとかそういうことではなくて、「なんでだろう」と自分を振り返った。写真論も書いているような人だったので、その人がそういうふうに聞くということには、何か意味があるのかなと思ったんです。それ以来、写真を撮る理由について考えるようになりました。例えば今回の北海道の写真も、なぜ東京からわざわざ北海道に行って撮っているんだろう、と。もちろん自分の中には理由がある。でも、傍から見たら、「東京の下町で生まれ育った人が、なぜ自然を撮っているんだろう」と思うかもしれない。だから、なぜ撮るのかということは、明確に考えるようになりました。
白石:写真って、感覚で撮っていいと思うんです。でも、それを誰かに説明するとか、作品として伝えるとなった時には、何か言葉が必要になる。そこは難しいですよね。
加藤:そうなんです。特に海外の人たちと付き合うようになって、そういうことをより意識するようになりました。いろんなことを共有したいと思った時に、「これはフィルムで撮っています」とか、「和紙に印刷しています」とか、「和綴じで作っています」という説明だけでは、その先に行けない。日本人同士って、そういうところで話が止まりがちじゃないですか。もちろん分かりやすいんですけど。
白石:加藤さんは別に和綴じをするために撮っているわけじゃないですよね。作り手は、その先のことをすごく目指しているのに、「紙は何ですか」とか、「どういう技法ですか」というところで話が止まってしまうことが多い。もちろん作家の力や言葉が足りないことが原因と言えるのでしょうけど。感覚を信じて作ることを続けるしかないなと思っています。
加藤:究極的に言ってしまうと、「生きる」みたいなところなんですよね。

「リヤカーの車輪のあたりに立っていてください」。アーケード街の公衆トイレの前で記念撮影。
白石:本当にそうなんです。写真は、生きていく時に、自分を支えるようなツールになり得ると思うんです。少なくとも私にとっては。でも、それはコンセプトとして説明するようなものではない。
加藤:そう言ってしまうと、またふわっとしちゃうんですよね。
白石:そう、ふわっとする。でも、根本にはそういうことがあるんだと思います。だから続けているんじゃないかな。だって、誰にも頼まれていないのに写真を撮っているわけだし。写真って結構大変だし、売れないことがほとんど。それでも、その人にとってはものすごく大切なものがあって、やめられなくて続けている。そこにはやっぱり何かあると思うんです。それは、美術の世界で取り沙汰されるようなものではないかもしれない。でも、ある種の人にとって写真は、生きている実感をもたらしてくれる手段のような気がします。
加藤:写真は機械だから、レンズの違いなどはいろいろあるにしても、見えたものは写る。でも、カメラを通ることで、撮っている人が見たものと必ずしも同じようには写らない。
白石:その関係性がすごく不思議なんですよね。見るということ自体も不思議だし、同じ場所にいる人でも全然違うものを見ていたりする。同じところにいても「あの時、あれがあったよね」と言っても、その人は見ていなかったりする。カメラは自分が見ていたと思っていたもの以外のものもクールに写し込む。機械と人の想念が合わさって写るということが面白いんじゃないかなと思います。
加藤:個人的には、そういう道具の「謎」みたいなものもすごく興味があります。例えばギターでも、憧れているミュージシャンと同じギターを買って、同じように弾いても、同じ音は出ない。機械だから同じ音が出ても当たり前なはずなのに出ない。カメラも多分同じなのかなと思うんです。もちろん、その土地の空気とか物理的な違いはある。でも、そうではないところで差異が生まれるものを、機械そのものが生むんだと思う。カメラも「押せば写る」と言われるけれど、本当に押せば写るだけなら、これだけ自分たちをいろんな気持ちにさせてくれたり、奮い立たせてくれる写真は存在しないんじゃないかなと思います。そして、その価値観も人それぞれ違う。

白石ちえこ『鹿渡り』より。
「意味」は、あとから生まれるのか?
Does “Meaning” Come After the photograph is Made?
加藤:木村さんの写真には、そこの場所に染み付いた「地霊」みたいなものを感じます。土地についての何かがあるとして、それが木村さんにシャッターを切らせているような感覚です。もちろん木村さんが選んだカメラで、木村さんが選んで撮っているわけだから、木村さん自身の視点がある。でも、お父さんや家族の写真にしても、今回展示していただく北海道の厩舎の写真にしても、「なぜここでシャッターを押すんだろう?」という木村さん独自のものがあるように感じます。常にシャッターを切るわけでもないですよね。例えば『嘘の家族』にも、もっと膨大な写真があって、違う構成を作ることもできるんでしょうか?
木村:膨大な写真があります。本にまとめる、展示を構成するとなった時に選んでいる段階で、その時の自分の性質みたいなものが出ているんだと思います。実際、この春京都で『嘘の家族』(2024年/Three Books)を展示したさいに発表したダミーブックは、今の視点で構成したものです。 白石さんがおっしゃるように、気になったら考えずに撮るというのは今もそうです。ただ、選んでいる段階では、その時の考え方とか状況とか心境みたいなものが反映されているかもしれない。ただ、撮っている時は、あまり考えすぎないようにしていると思います。大まかに「こういうところに行こうかな」とか、「こういう景色を撮ろうかな」ということはありますけど、狙い撃ちして撮っている感じではないです。なんとなく撮っている。「良さそうだな」というくらいですね。

「後から気持ちが変化して、見え方も変わってくるんだと思います」。写真:木村肇。
白石:『嘘の家族』みたいな作品を作る時はどうなんですか? もともと撮りためていた写真の中からピックアップして、「こういう傾向がある」と後からテーマを見つけるのか、それとも「家族」というものがあって、それを基に過去の写真を見返して、「これがそうだった」と選んでいくのか。
木村:どっちもですね。家族に関するプロジェクトは、いろんな角度で15年くらいやっていました。2011年頃から、断続的にずっとやっていたんです。その状況、その状況で、ただ取捨選択してやるものもありますし、最初に自分の家族との記憶みたいなものがあって、『嘘の家族』の場合は、家族という一種の台本というか、ストーリーがあった時に、そこから導かれた自分の過去の家族とのエピソードに見合うものを選んでいる感じです。記憶を手繰り寄せながら、それに合うものを選んでいる。もちろん、そう思わずに撮りためていたものの中からピックアップすることもあります。例えば10年前に家族のプロジェクトをやった時に選んでいた写真から選ぶこともあるし、一度全部をもう一回見直して、今の状況、今の心境で見直すこともある。だから、10年前と今では選ぶ写真が少し違います。ただ、基本的には自分の中にある種のストーリーがあって、それに合うものを選んでいるという感じです。
白石:撮られた時点では、それが後からそうなることは予想していないんですよね。。
木村:そうですね。撮っている時はあまり考えていないというか、なんとなくぼやっとしている。家族が昔行った場所に行ってみようかなとか、そういうものはありますけど、撮ったものが後からどうなるかまでは分からないです。
白石:そこで撮ったからこそ、後になってまた浮上してきて、今のものとつながってくる。
木村:そうです。昔は全然気にしなかった写真や、撮った記憶もあまりないものが、今になって「これ、ちょっと気になるな」と思うことがよくあります。それは、自分の今の心境が変わったということもあるかもしれない。その時に何か気になったから撮ったのかもしれないけど、後から気持ちが変化して、見え方も変わってくるんだと思います。

木村肇 『TRACK』より。
加藤:それは共感します。だから自分も、自分は天才でもないし、狙って撮れるような存在じゃないと思っているんです。写真って、偶然性を呼び込んでくれるんだと思う。北海道や東京の写真をたくさん撮っていくと、そう思わされました。今回、山を正面から撮っている写真があるんですけど、この写真も自分の感覚でああいうものを撮ろうと思って撮ったわけではないと思う。「思う」というのも、その場所に山があるから撮るような感じでシャッターを押している。でも、その感覚はさっき話した「光が綺麗だから、直感的に撮った」という感覚とも少し違っていて。それが何年後かに見た時に、自分の中ですごく大切な写真になるという感覚が後から生まれてくるような感覚が無意識にわかっているような心持ちで撮っている。だから、自分はあまり自分の感覚を信用していないというか、実体験的に、自分で狙って撮って「いいもの」が撮れるとは信じていないんです。
木村:分かる。それはめちゃくちゃ分かります。
白石:私も全然信用していないです。
加藤:今回、展示のポスターの作成に際してデザイナーの鎌田充浩さんが事前にいくつかお渡しした中から選んでくれた一枚は、画面の下の方に鹿が写っているんです。でも僕はあの写真を撮った時点では、その存在を確かには認識していませんでした。でも、写っていた。そして、あの時撮った写真の中では気になる写真になった。あれは一番最近撮ったものです。
今回展示する6つの作品は今年の春に撮ったものが多くて、あの写真も、撮った時には脳裏のどこかで「何かが写り込んでいる」、くらいの感覚だったと思うんです。でも、自分の中でずっと考えていた『Dead Trees』という、死んだ木、木が死ぬということにつながってきた。北海道では、鹿などの動物が木の皮を食べることで木が死んでいく。表面の皮を剥がされたら、それだけで木は死んでしまう。何十年も生きている大木でも、鹿が地面から高さ2メートルくらいまでの皮を食べてしまうことで、毎年春になると青々とした新芽を芽吹く立木としては、どんどん死んでしまうんです。
自分は今、先ほどの『Dead Trees』というコンセプトのシリーズを撮っていて、6年くらい同じ場所に通っていると、そういう鹿の食害のようなものを、ニュースで知るだけではなく、実際に実感として年々切に感じるようになってきた。それは森の環境の問題でもあって、鹿が木の皮を食べなくてもいいのに、ほかに食べるものがないから食べているという側面もある。そうやって森全体の生態系が変わっていく。それが北海道の自然について考えることにもつながっています。目に見えないというか、些細なところからいろんな大きな変化が起こっているんだと思います。

「あの写真を撮った時点では、その存在を確かには認識していませんでした」。
加藤孝司『Dead Trees』シリーズより。
加藤:水だって自分が住んでいるような「都市」では、キッチンの蛇口をひねれば出てくる。しかもかなり安いコストで使い放題みたいだったりする。でも、そうではない場所もあることを意識する必要があるし、水を得るために遠くまで水を汲みに行かなければならない人たちもいる。そういう水の問題ひとつ取っても、自分たちが享受していることが当たり前ではない。だから北海道の自然も、当たり前だと思ったら、たぶん将来がないんだと思う。自分が見た北海道の自然も、そこに至るまでには人が手を入れてきた歴史がある。それは、自分が生まれ育った都市に置き換えても同じで、今あるものは、いい悪いとは別として、当たり前ではないんですよね。

加藤のカメラで木村さんが撮る。写真:白石ちえこ。
風景と時間のあいだに立ち上がるもの。
What Emerges Between Landscape and Time
加藤:これまでお話してきた通りに、今回の3人の作品には土地としての「北」という共通点があります。それぞれ北海道や北の土地を撮っていますが、同じ「北」でも、見えているものはかなり違いますよね。
今回、「北の国」の写真だとしても、北の写真というものに対する受け取り方は、人によって全然違うと思うんです。『北の国から』のような、草原の中に一本だけ木が立っている風景も、もちろんすごく好きですし、風景として憧れます。高速で移動する車窓から、丘の上に木のシルエットがずっと等間隔に並んでいるのを見て、「北海道に来た」と思ったりもする。でも、今回の写真は必ずしもそういう感じではない。3人が全然違う場所で撮っているのに、いわゆる「北海道」や「北の国」というイメージとは違うものになっている。もちろんそこを最初から意識していたわけではないけれど、偶然そうなったということが、やっぱり写真の奥深さ、奥ゆかしさだと思います。それは、東京を撮っても、パリを撮っても、ロンドンを撮っても、ニューヨークを撮っても、その人の撮り方がある。同じ場所でも全然違うものになるし、そこに撮り手がどう感情移入しているのかも、3人とも全然違う。

加藤孝司『BLACK WOODS』(2025年/Self publishing)。
2020年秋から2025年春にかけて撮影したもの。今回展示する作品は2026年早春に撮影した新作を中心に構成。プリントはこの春韓国ソウルで購入した、産地の異なる韓国の伝統的な手漉き紙「韓紙」にUVインクジェットプリントの技法で印刷した。
加藤:木村さんは、2010年代初頭に『TRACK』を撮った以降も、北の方へ行っていますか?
木村:もともと登山が趣味で、北海道には結構有名な山があるので、登山としてはちょくちょくいろいろ山に行きました。ただ、最近は写真を撮りに行くという感じではないかもしれません。でも、白石さんや加藤さんの作品を見ていて、また北海道に行きたくなりました。昔、その山の写真を撮りに行っていた時期もあって、北海道にはその時初めてだったんです。2011年頃だったと思います。それまで北海道にはあまり行ったことがなかった。やっぱり本州とはちょっと違いますよね。どう考えても。
白石:他にはない感じがありますよね。
加藤:もちろん北海道を拠点にして活動している写真家もいます。
白石:我々の場合は、行って撮って、帰ってくる。
加藤:はい。その違いもあるかもしれない。でも、自分は東京生まれだけど、北海道に行って、逆に「同じだな」と思ったんです。東京と同じような論理でできている場所なんだなと思った。だから今回も、必ずしも「手つかずの自然」というところを撮っているわけではなくて、人間が作った風景としての北国、自分にとっての風景を撮っているんです。東京という自分が生まれ育った場所も、人間が作った風景だったりする。それと同じように捉えています。自分にとって北海道という北の土地は、一度人の手が入って、それがいろんな時間の中で、もう一度、原始の姿のように僕らが捉えられる風景になっているところがある。そこを今の自分や自分の出自と結びつけて、撮るモチベーションになっているんです。必ずしも自分とは全然違う場所に行っているという感覚はない。それがビルなのか木なのか、という違いです。そういう自分のよりどころみたいなものがあることで、ここ6年くらい毎年同じ場所に行っている。撮れているというより、探している感じですね。

「後ろの木の引き戸がちょっといい感じなのでその前に立っていてください」。写真:加藤孝司。
木村:そもそも、どうして北海道だったんですか?
加藤:最初は仕事で、そのエリアの方々のクラフトを取材する機会があって、自分が『BLACK WOODS』と呼ぶ森に出合ったんです。そういう仕事で行くのが5回くらい重なって、それから、今まで仕事で日本のいろいろなところに行ったり、島に行ったりもしてきたけど、旅に出るのはお金も時間もかかる。遠方に行けば行くほど大変です。ただ、自分で苦労してでも行きたいと思った場所がそこだった。だから、自然に導かれたというところもあると思います。でも、本当に同じところ、そんなに公にはしていないけれど、同じところにしか行っていないんです。
白石:一つのところを何度も行くのは、すごくいいですよね。
加藤:そう感じています。
白石:私の場合、旅の道東の写真では同じところに行って、同じようなものを撮ることになる。その後に作品を発表することになった時、毎年撮っていた 同じような広大な風景が、ほとんど無駄に思えることもありました。初めて行った人も同じ場所を撮るかもしれない。でもそういうものが、出来上がった作品の中に「厚さ」として加味されることを信じたいです。
加藤:もちろん、写真がそういうものだけを目的にしているわけではないけれど、自分が見つけ出したというより、そこにある良さを発見するということはあると思います。それは人間同士でも同じで、「この人の良さは自分しか分からない」というような感覚ってあるじゃないですか。そういうものが少しでもあると、より面白い。さっき山の写真の話をしましたが、山をああいうふうに撮ることは、自分の中でもあまり想像したことがなかったんです。いつもそこに山があるから、「ご挨拶がてら撮っておこう」という感じで、毎回行くたびに撮る。そこに山があって、湖があって、それは何万年、何十万年という時間の中でできた場所だったりする。自分が意識していないだけで、もしかしたらその山に導かれているのかもしれない。山の頂上まで行くわけではないけれど、毎年同じ場所に立つ。そして、ご挨拶がてら絶対に撮りたいと思う。そうして撮っていたものを後から見て、「なんで同じ場所から、ほぼ同じ構図で、この山を撮っているんだろう」と思った時に、突然また意味が現れてくる。写真って、必ずしも撮った時に「撮りたい」と思って撮ったものが、結果的に自分にとって引っかかる写真になるとは限らない。ものすごくいい構図で撮れると思って撮ったのに、後から見ると「普通だね」と思うこともある。
白石:それは本当に分からないですよね。何年か経って、「これはダメだ」と思っていた写真が、急に「これがここで必要だ」となったりもする。何がいいのか、何が時間の中で熟成してくるのか、こないのかは分からない。だからネガとかを捨てられないんです。
木村:そういうのはありますね。
白石:私の『鹿渡り』 も、本の中にあるもの以外にも膨大に写真があります。同じような写真ばかりです。凍った湖を鹿が一列になって渡っているのを見た時に、ビリビリっと直感があって、「この群れの後ろについていきたい」と思って撮り始めて、毎年通うようになった。最初から決定的なものを目指していたわけではないし、ゴールがあったわけでもない。結局、コロナになって、どうにもならなくなって、とにかく手元にある撮ったものをまとめようと思って本を作ったんです。そこで初めて、北海道の冬の写真が『鹿渡り』として立ち上がってきた。「ああ、こういうものを撮っていたんだ」と思った。それでセレクトしたものを持っていって、編集者の太田さんにも編集してもらって、作品として形になった。コロナがなかったら、まだずっと撮り続けていたと思います。

白石ちえこ『鹿渡り』(2020年/蒼穹舎)
加藤:そう考えると、写真には、自分では完全にはコントロールできない部分が明確にあると思う。自分が撮ろうと思ったものだけではなく、たまたま写っていたものや、何気なく撮ったものが後から意味を待ってくる。人との出会いも同じで、最初はただ出会っただけに見えても、後から振り返ると、そこに別の情のようなものが育っていることがある。今回の展示もそうだと思います。木村さんの『TRACK』も、白石さんの『鹿渡り』も、当然ながら撮影された時には今回の展示を想定していたわけではない。撮影に出かけ、現像し、見返し、展示をし、本というかたちにまとめたり、それぞれが長い時間をかけて続けてきたものが、あるタイミングでここに集まった。その偶然そのものが、写真というものの面白さなのかもしれません。
白石:本当にそうですね。
加藤:だからなおさら、写真は撮った瞬間に完成しないことが意義深い。撮った時には分からなかったものが、何年も経ってから意味を持つことがある。同じ場所に何度も通うことにも意味があるし、誰かに出合うことで、その作品がもう一度動き出すこともある。自分の感覚だけを信じて追及することではなく、写真を通して、自分が思っていなかったものが現れてくる。それを時間が経ってから発見する。今回の3人の作品も、結果として同じ空間に並ぶことで、それぞれの写真の違いと共通点が見えてきた。タイミングがあるんだと思います。
白石:写真って、そういうところが面白いですよね。撮った時にすべてがわかっているわけではない。後から見た時に、自分でも知らなかったものが出てくる。だから続けていけるのかもしれません。
加藤:そうですね。自分に対しても、人にたいしても、無理に答えを決めなくても、求めなくてもいいのかもしれない。写真だって、撮った時には分からなくても、時間の中で少しずつ意味を持ってくるのかもしれないのだから。何度も同じ場所に立つことも、人と出会うことも、作品を見ることも、その時だけでは完結しない。そういうものの積み重ねの先に、何ものかが、「写真」があるんだと思います。

木村肇|Hajime Kimura
1982年千葉県生まれ。芝浦工業大学工学部建築学科卒業。
記憶の視覚表現を主なテーマにした作品を制作している。
主な受賞歴にバッテンフォール国際写真賞(2013、ドイツ)。
2016年から2018年まで文化庁海外研修員、ポーラ財団海外研修員としてドイツ在住。
近著に「Correspondence」(the (M) éditions)、「Tebajima」(蛙企画)、「嘘の家族」(Three Books)「TRACK」(NECK)など。現在は東京大空襲に関するプロジェクトを2020年から取り組んでいる。
白石ちえこ|Chieko Shiraishi
神奈川県横須賀生まれ。1990年代アジアを巡る旅の中で写真を撮りはじめ、1995年に市民講座で暗室技術を学ぶ。日常の光景や風景に潜む記憶の原風景、時間の痕跡を強く感じるオブジェクトに関心を深め、2000年頃から自家暗室でモノクロ作品制作をはじめる。2009年より鶏卵紙、サイアノタイプの日光写真、2011年から「雑巾がけ」と呼ばれる古典技法を用いた作品制作もはじめる。2015年から冬の北海道道東に通い、エゾシカを中心とした北海道の自然の中で、目に見える風景の奥に潜む「時間」を見つめる。2023~2024年にカナダケベック州「Rencontres internationales de la photographie en Gaspésie」に参加。著書に『サボテンとしっぽ』(冬青社)、『島影』(蒼穹舎)、『鹿渡り』(蒼穹舎)、小説家と共著『海に沈んだ町』(小説 三崎亜記 朝日新聞出版)がある。第37回写真の町東川賞特別作家賞、 第10回 Hariban Award 審査員特別賞。
加藤孝司|Takashi Kato
東京都生まれ。テラススクエアフォトエキシビションのキュレーション、写真および執筆の仕事に携わる。2009年頃より写真作品の制作をはじめる。個展に「Landscape seen by someone」(2020年)、グループによるテーマ展示「Dialogue with photography」(2022年〜)の企画・作品の出展を続けている。『BLACK WOODS』(2025年/Self publishing)、その他、アーティストブックを多数制作する。https://form-design.jugem.jp
まとめ=加藤孝司 Takashi Kato
- テラススクエアフォトエキシビションVol.38「Dialogue with photography #5 The far north」
- 住所: 千代田区神田錦町3-22 テラススクエア 1F エントランスロビー
- 会期:2026年9月28日(月)ー2027年1月29日(金)
- 休館日: 土曜・日曜・祝日、入場無料
- 主催:テラススクエア | 協賛 住友商事 | 企画 加藤孝司、三浦哲生
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