日常の中に潜む気配から立ち上がる言葉と音
ー 今回展示されている作品はすべて愛用しているiPhoneで撮影したものだそうでそうですが、写真家である大森さんがiPhoneで作品を撮る理由を教えてください
大森:写真を始めたときに、シンプルに目の前の出来事に感動して撮っていた感じがiPhoneの写真にはあるんだよね。
それとデジタルカメラが出た時から、より簡単に誰もが写真を撮れるということってなんなんだろうということを漠然と考えていました。
フィルムは36枚とかって一度に撮れる撮影枚数が決まっているわけですよね。ずっとフィルムのカメラを使ってきたから、デジカメの終わりのない感じに最初は戸惑っていて。写真機能付きの携帯電話が出来てからは写真自体も軽くなったよね。
今回の展示でもiPhoneで撮った写真をプリントしているけど、フィルムで撮った写真をプリントする行為が貴いという気持ちは今でもゼロではないんですよ。
でも写真って、尊さを込めて撮ってそれをプリントしてという、そもそもそういうものなのか?という問いも一方にはもっていて。今もフィルムとデジタル両方で撮り続けていて、それに対する答えはないんだけど、そのズレは感じていました。
ー そんな大森さんがiPhoneで作品を撮り続けている理由ってなんですか?
大森:すごく大雑把にきこえるんだけど、自分にとっては東日本大震災がおこったことはとても大きいですね。
それ以前は目に見えるものを撮り続けることに徹していればいいと思っていて、今でも半分くらいはそうなんだけど。実際、目に見えないものは写真には写らないから。
あと人は自分が見たいものしか見ないし、見ていない。原発の事故や放射線ということだけでなく、実際ボクがいた場所というのはめちゃめちゃ揺れて、その時に聞こえていた音が強く印象に残っています。
揺れ始める前に動物が鳴いたり、本当にぞぞっとするようないろいろな音や声が聞こえてきて、それからドカンと揺れたんです。
そのあと、目に見えない変化と液状化という目に見える変化が同時に起こって、言語化することは難しいけど、そのことは自分にとって今写真を撮ることとすごく関係しています。
ー 小説ではそれは言語化することになると思うのですが、大森さんが震災後すぐに発表した作品に「すべては初めて起こる」のプロジェクトがありますが、写真でどう表現するのですか?
大森:写真は小説とは違って、明確なストーリーがあるわけではないし、そもそも写真で何かを表現する気持ちもあまりないのですが。
ある場所に居合わせて写真を撮って、そこに写っているものから逆に何かを読み取れるということが大切なのかもしれない。
今回オフィスビルのエントランスという働いている人にとって日々過ごしている場所で写真を展示する機会をいただいた訳ですが、ギャラリーや美術館ではない場所での展示なのが面白いと思っています。
その場所に「窓がある」という感じにしたいと思って今回の展示をつくりました。
なぜ今回柴崎さんに対談をお願いしたかというと、この展示の作品を選んでいる時に、柴崎さんの小説をたくさん思い出したんです。最初に思い出したのは、日比谷野音でのコンサートが出て来る小説でした。
ビルの上からそれを見ている人の話があって、ボクが何かを見ているときに、他の人は別の景色を見ている。それが今回の展示とシンクロして、写真の不思議さのようなものを感じました。
柴崎:今日はありがとうございます。私自身学生時代から写真を撮り続けていて、写真に関する経験から小説を書くことに影響を受けています。(大森さんの東京タワーの写真をみながら)これは朝ですか?
大森:早朝5時頃に、六本木一丁目にある高層ビルから撮影しました。
柴崎:まわりのビルに明かりがついていないから朝なのかなと思ったんですけど、東京タワーってこんな朝早くも光っているんですね。
大森:普通こんなに早く東京タワーって見ないですよね。
ー 柴崎さんのご出身は大阪だそうですが、柴崎さんにとって東京のイメージはどのようなものですか?
柴崎:いろんな東京があります。まず広いし、そして人それぞれにとっての東京がある、バリエーションが豊かというイメージがあります。東京の西と東、電車の沿線でも全然違いますよね。私は大人になってから東京に来たので、イメージが掴めないままでいるところもあります。
大森:神戸に生まれて大学で東京に出て来て、今では東京暮らしの方が長くなってしまったけど、最初は同じような感覚がありました。
最初は小田急線沿線、西武線沿線といってもどんな感じか分からなくて。出身の高校や大学なりの社交界のようなものもあるじゃないですか?
柴崎:そうそう、私はそれがいまだに分からなくて、あの人はどこそこの大学だからという会話を聞いている時に、そこに込められた意味みたいなものはいまだに分かりません。
大森:柴崎さんの本を読むと関西弁が多くて、たとえば鴨川の河原でうだうだしている日常の情景とかを書かれているじゃないですか。
神戸生まれのボクにはそれが置き去りにしてきた青春というか、ひょっとしたらそうだったかもしれない自分という感じがして、懐かしいとは違った不思議な感じもするんです。
ー 同じ京都でも観光目線とは違う視点で描かれていて新鮮ですよね。
柴崎:京都は風光明媚な場所というイメージを持っている人が多いと思いますが、住んでいるとお寺とかそういうものは特別でなくなりますからね。
わざわざ行く場所ではなくて、生活の一部というか。大森さんは今回の作品はどのような視点で選んでいるのですか?
大森:日々暮らしていると「特別な出来事」と「当たり前のこと」を分けて考えがちですよね?でも、その区別って実はとっても曖昧じゃないかな、という問いかけになるように選んでみました。
最初のセレクトの段階で何かがまさに起こっているという感じのものはあえて外しました。たとえば天皇陛下の写真とか、デモの写真とかもあったんだけど外しています。別の場所での展示や写真集なら、また別のセレクトになる可能性ももちろんあるのですが。
柴崎さんの小説には必ず写真やカメラが登場してきますが、柴崎さんが最初に気になった写真ってなんですか?
柴崎:高校生の頃に楠本まきさんの漫画がとても好きだったんですが、単行本の中にその人が好きなものが載っていました。そこに好きな写真家としてマン・レイの名前がありました。それでどんな人なんやろうと興味を持って、心斎橋にあったパルコにマン・レイの実験映画の上映を観に行ったのを覚えています。
大学の時に友人の誘いもあってたまたま写真部に入ってしまい(笑)、自分で写真を撮るようになったのはそこからですね。
大森:小説の中にも写真のワークショップの話や写真集を見る話、お花見といったごく日常の話にも写真が出てきたりして、写真はすごく見てらっしゃるなあという印象を持っています。
柴崎:そうですね。写真部に入って以来、写真はいつも身近にありました。今回テラススクエアでの大森さんの展示を拝見して、大学を出て4年ほど御堂筋にある会社で会社員をしていたこともあって、オフィスビルのエントランスでの展示というのが面白いと思いました。
当時は会社員として働きながらも、これは仮の姿なんだと思っていましたけど。
大森:仮の姿だと思っていたんですか?面白いですね。最初から文章を書きたいと思っていたんですか?
柴崎:はい。子供の頃から自分は小説家になるんだと思っていました。会社員時代は制服だったので、「仮の姿」感が強くって(笑)。入社した時から文章を書くためにお金を貯めて、3年くらいで辞めようと思っていました。それと写真を撮るという意味では、学生時代から写真を始めましたが、会社員時代の方が撮っていたかもしれませんね。
大森:当時はどんなカメラを使っていたんですか?
柴崎:大学時代には一眼レフの全部マニュアルのカメラでモノクロで撮っていて、写真部の暗室でフィルムの現像からプリントまでしていました。
卒業して暗室が使えなくなったこともあって、会社員になってからはコンパクトカメラを買ってカラーで撮るようになりました。一眼レフはどうしても重いから、コンパクトカメラをいつも鞄に入れておいてシャッターを押すだけで撮れるというのが、楽でいいなあと思って。ずっとコンパクトカメラを愛用しています。
大森:90年代には、それまでフィルムの一眼レフカメラを使っていたので、ビッグミニみたいなコンパクトカメラが流行っていてチョー新鮮!とかって思いました。
柴崎:そうなんです。93年に大学に入って、97年に卒業したのですが、ちょうどその間に女性写真のブームがあって、当時はHIROMIXさんがとても流行っていました。私が写真部に入った時には男子ばかりだったのですが、卒業する時には女子部員ばかりになって。
大森:そうだったんだ。時代を感じますね。
柴崎:私は友人のついでに入部してしまったというのが写真部に入ったきっかけでしたが、当時は女子部員は私たち二人だけだったのに、三年後には部室に入りきれないぐらいの女子が見学に来ましたね。
卒業間際は京セラのT PROOFというコンパクトカメラも使っていました。「ニューアングルスコープ」といって上からファインダーをのぞくことが出来るカメラでした。それと会社員になって最初のボーナスでミノルタのTC1というカメラを買いました。
大森:当時の高級コンパクトカメラですよね。
柴崎:フィルムカメラでは最小で、絞りが円形でマニュアルだったのがと気に入っていました。シャッターを押して撮ってカメラ屋さんに持っていって待つのが新鮮で楽しかったです。
語っても語り尽くすことが出来ないものとしての写真
ー 小説家になる前から頻繁に写真を撮られていたから、柴崎さんの小説には写真がたびたび登場するんですね。
柴崎:そうですね。デビュー作である「きょうのできごと」以外は、何かしらのかたちで写真やカメラの話が出てきますね。
大森:今回の対談の前に、いくつかの柴崎さんの作品を読み返しましたが、そこには全部に出てきましたね。
柴崎:写真やカメラにはものすごく影響を受けています。小説は仕事だけど、写真は自分の趣味や楽しみとしてとっておくことにしています。
学生時代から写真を撮ったりプリントしてきたという経験から、時間や場所について考えることが多くて、写真を通じて考えたことが私の小説にも反映されています。
ー 古今東西いろんな小説がありますが、写真から影響を受けた小説って多いものなのですか?
大森:そんなにたくさんの小説を読んでいるわけではないので、どうこういう資格はありませんが、写真と小説の関係という意味では、柴崎さんはかなり特別だと思いますよ。
柴崎:そうかもしれませんね。もともと視覚的なものに興味があるんです。
大森:「きょうのできごと」にも、カメラは出てこないけど、描写はかなり写真っぽいですよね。「韓国のホテルからの眺め」が出て来るのは、「きょうのできごと」の続編の「10年後」の話でしたっけ?
柴崎:そうです。「きょうのできごと、十年後」の中の「空の青、川の青」ですね。
大森:描写の仕方というか、柴崎さんの文章自体が写真のようだって思うんですよね。もちろん個人の登場人物は丹念に描かれているんだけど、書き手や語り手が外から見ている時の描写の緻密さとのバランスがすごく不思議で、それで読むのが止められなくなる魅力があるんですよね。
それもあってか柴崎さんの小説は読むのに時間がかかると評されることもありますよね。それで、ちょっと思い出したのですが、音楽や絵を聴いたり見るセンスがある人でも、写真を見るのが雑というかセンスのない人っているんですよ。
柴崎:それはどういうことですか?
大森:写真を一瞥した時に最初に入って来る一番目立つ情報とか、その写真が置かれている文脈みたいなものから逃れられないというか、そこから動こうとしない人。
フォーカスの合っていない部分や、細部の面白さが写真には潜んでいて、いろんな見方ができるのが写真の面白さでもあるんだけど。
柴崎:確かに写真って、パッと見ることも出来るんだけど、そこから読み取れることってたくさんあって、いつまでも見て考えることが出来るものでもあるんですよね。
大森:普段から考えているのですが、もしこれが写真に写ったらどう見えるか、ということなんです。現実って漠然としているし、フォトジェニックでもない。
そもそも世界にファインダーのようなフレームもないじゃないですか。でもファインダーをのぞいてフレームでみて瞬間を切り取るということを生業としていて、そこで考えるのが、目の前の出来事が写真になったときにどう見えるんだろうということ。
いま柴崎さんを撮ったとしても、そこには今日これまで一緒に過ごしてきた時間の流れは見えないし写らない。でも写真としてはシャッターを押しさえすれば撮れちゃうし、それが面白い。それは同じビジュアルだけど映画とも全然違う。
柴崎さんはそんなことを含めて、写真がもつそのあり方をよくわかっていらっしゃると思うんです。
柴崎:写真がもつ変な感じというのはその通りだと思います。人が撮った写真を見ても、ここには何が写っているんだろうとか、この変な感じはなんなんだろうなといつも思っていますし、写真はどんなに語り尽くしても何か説明しきれない感じがするんですよね。私自身はそれが面白いと思いながら写真を見ています。
大森:柴崎さんがいいと思う写真ってどんな写真ですか?というのも世の中には「いい写真」という言い方が流通しているじゃないですか。いい写真を撮るにはどうすればいい?と聞かれることもありますし、自分としても文脈的には、これがいい写真だと言うこともあるし。
柴崎:好きな写真はあるけど、いい写真と思うことはあまりないかもしれません。
ー 面白いお話ですね。「いい写真」という言葉も写真に関してはついつい使いがちですが、「日常」という言葉はどうですか?日々の何かを説明する時に、ついつい「何気ない日常」とか「日常的には」とか使いがちですが、大森さんは今回の作品を説明する時に、安易に日常という言葉では説明したくないとおっしゃっていましたが。
大森:確かに「日常」も「いい写真」に近いジャンルの言葉ではあるよね。
柴崎:何かを言っている感じにはなっているけど、あまり何も言っていない言葉という気もしますよね。
大森:でも、日々の暮らしというのか、他にどのように言えばいいのか難しいですよね。
柴崎:私の小説を評して何気ない日常とか、何も起こらないとか言われるのですが、自分ではそうは思っていなくて、毎日暮らしている中で、これは何なんだろうかと思うことがあって、それを書きたいと思っています。
それが日常という言葉になるのかもしれませんが、でも「日常」が使われる時にはたいてい、何気ない、何も起こらないという意味がくっ付いてもきますが、そうではないんじゃないかと。何か起こっても起こらなくても日常だし、自分にとっては何もないことだけが「日常」ではないという思いがあります。
それは明日も同じようなことが続くという前提があって使われる言葉のような気がしていて、それは先ほど大森さんから3.11の話がありましたけど、関西で生まれ育った私には、3.11以前の1995年の阪神淡路大震災の経験が大きなものとしてありました。
大森:柴崎さんが学生の頃ですよね。
柴崎:大学3年の時でした。大阪にいたのですがものすごく揺れました。早朝のできごとで、まだ寝ていたので何があったかもすぐには分かりませんでした。
電気もガスも水道も止まるという経験自体初めてでしたし、その後の報道と現実とのズレやそのときの街の感じなども、それからの自分の感覚に強く影響していると思います。
私自身は先ほどの意味では、「日常」という感覚がその時から失われたと思っています。というよりもいつ何が起こるか分からない、というのが私にとっての日常の感覚です。
その前、中学三年生の時に昭和天皇の崩御という出来事があって、自粛ということで普段のテレビ番組が全部差し替えられて、イベントもあれこれ中止になり、そのことにとても驚きました。当時ものすごくテレビっ子で一日のほとんどをテレビを見て過ごしていたせいもあって、世の中が突然態度を変えた、という感じがしたんです。その時に自分が当たり前に明日も続くと思っていることが、実は明日はどうなるか分からないんだという感覚を強く持ちました。
その2つの出来事が私に大きな影響を与えていて、だから「日常」というものが当たり前なものだという感覚があまりピンと来ないし、そういったものが安定的に存在しているとは思えないところがあります。写真も目の前にあるものが写っているといえばその通りなんだけど、でも何かあると思わせてくれるところが、自分が写真にずっと興味があるところなのかなと思います。
大森:だから面倒くさいことをやっているなと自分でも思いますよね。
柴崎:そう!小説も一緒です。
大森:撮るのはシャッターを押すだけなんだけど、一枚の写真から読み取れるものはめちゃくちゃ多くて、それが自分にどう降りかかってくるのかを考えることはあります。だからこそ撮った写真について、これは江ノ島の写真です、これは東京タワーの写真です、とは言えるんだけど、でもそうだっけ?と自分でおもっちゃうところもあるんですよね。それはテレビ画面に写っている天皇陛下の写真も国会議事堂前のデモの写真もそうで、でもすべてが等価にフラットというのも違うんですよね。
柴崎:私もそう思います。
大森:そこにはそれぞれの事情があるし、生きている人がいる。写真には、うっかりそれが複雑なまま写っちゃうように思えるのが不思議で、でもこれってただの断片でしかないよね、という側面も多いにあって、写真を通じて見えてくる、その世界のありようが面白いんだよね。
柴崎友香さんと大森克己さんの対談前編をお送りしました。後編では写真がもつ貴さについてなど、さらに深くお話をうかがっていきます。
<後編に続く>
写真と文=加藤孝司
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